2011年07月12日
阿応理屋恵(あおりやえ)ノロとは?
阿応理屋恵(あおりやえ)とは、国頭(琉球北部)のムラムラにいるノロたちを統括するノロとされています。今帰仁村歴史文化センターには、阿応理屋恵ノロが身につけた勾玉の首飾りが展示されています。
今帰仁城になぜ阿応理屋恵ノロがいたのかというと、今帰仁(山北)監守がいたからです。今帰仁監守の奥方または娘が阿応理屋恵ノロの役をになったのです。
今帰仁監守とは、第二尚氏の時代、尚真王の三男昭威(しょうい)が今帰仁監守となり、その後代々世襲していきました。今帰仁監守と阿応理屋恵ノロは同じ家族の一員ということです。
首里の王様、琉球国王は三男を今帰仁城へ派遣し、国頭全体を治めさせたわけです。祭政一致の琉球王国ですから、今帰仁監守と阿応理屋恵ノロがいっしょなのは当然のことですね。
今帰仁城内にある上の御嶽と下の御嶽、そしてクバの御嶽での祈願がおもな拝みの場所だったと思われます。

クバの御嶽を遥拝所サカンケーから望む。ブルーシートは発掘中の場所を保護するため。
200年以上も続いた監守時代ですが、1609年の島津軍との戦い(薩摩軍の琉球侵攻)で、今帰仁監守5世の克祉(かつし)が戦死し、今帰仁城は焼き討ちにされます。1665年には監守一族はふるさと首里に帰ってしまいます。今帰仁監守7世従憲(じゅうけん)のときです。今帰仁城を再建する力はもはやなかったのでしょうか。
こうして、阿応理屋恵ノロの祭祀は途絶えてしまったわけです。ところが、今帰仁ノロが阿応理屋恵ノロの祭祀を肩代わりしておこなうようになっていきます。今帰仁ノロは、今帰仁ムラ、親泊ムラ、志慶真ムラの祭祀をつかさどるノロです。
このあたりは、少し複雑で詳しいことは研究中とのことです。
ノロの話に興味をお持ちのお客様には、阿応理屋恵ノロの勾玉はぜひご覧頂くよう、機会あるごとにご案内しています。ヒスイのように見える緑色の勾玉がずらりとならんだ首飾りは、阿応理屋恵ノロがいかに格が高く、その力を及ぼしていたか、伝えているように思います。
今帰仁城になぜ阿応理屋恵ノロがいたのかというと、今帰仁(山北)監守がいたからです。今帰仁監守の奥方または娘が阿応理屋恵ノロの役をになったのです。
今帰仁監守とは、第二尚氏の時代、尚真王の三男昭威(しょうい)が今帰仁監守となり、その後代々世襲していきました。今帰仁監守と阿応理屋恵ノロは同じ家族の一員ということです。
首里の王様、琉球国王は三男を今帰仁城へ派遣し、国頭全体を治めさせたわけです。祭政一致の琉球王国ですから、今帰仁監守と阿応理屋恵ノロがいっしょなのは当然のことですね。
今帰仁城内にある上の御嶽と下の御嶽、そしてクバの御嶽での祈願がおもな拝みの場所だったと思われます。

クバの御嶽を遥拝所サカンケーから望む。ブルーシートは発掘中の場所を保護するため。
200年以上も続いた監守時代ですが、1609年の島津軍との戦い(薩摩軍の琉球侵攻)で、今帰仁監守5世の克祉(かつし)が戦死し、今帰仁城は焼き討ちにされます。1665年には監守一族はふるさと首里に帰ってしまいます。今帰仁監守7世従憲(じゅうけん)のときです。今帰仁城を再建する力はもはやなかったのでしょうか。
こうして、阿応理屋恵ノロの祭祀は途絶えてしまったわけです。ところが、今帰仁ノロが阿応理屋恵ノロの祭祀を肩代わりしておこなうようになっていきます。今帰仁ノロは、今帰仁ムラ、親泊ムラ、志慶真ムラの祭祀をつかさどるノロです。
このあたりは、少し複雑で詳しいことは研究中とのことです。
ノロの話に興味をお持ちのお客様には、阿応理屋恵ノロの勾玉はぜひご覧頂くよう、機会あるごとにご案内しています。ヒスイのように見える緑色の勾玉がずらりとならんだ首飾りは、阿応理屋恵ノロがいかに格が高く、その力を及ぼしていたか、伝えているように思います。
Posted by usan at 21:41│Comments(0)
│今帰仁城で拝む
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。