そのとき歴史が動いた、舞台となった今帰仁城
そのとき歴史が動いた。その舞台となったのが今帰仁城です。
時は、
1609年。薩摩の軍勢3000名が、今帰仁城を焼き討ちにしました。薩摩軍の琉球侵攻という事件です。
当時の今帰仁監守(かんしゅ)5世の向克祉(しょうかつし)は、その年に亡くなりました。
薩摩軍との戦いで傷を負ったのか、あるいは自害したのか、詳細はわかっていません。
民衆は、薩摩軍の襲来に大騒ぎとなり、家財道具を運び出すものもいたと記録されています。
そのころ日本では、徳川家康が江戸幕府を開き、鎖国へと進んでいきます。
1609年からおよそ260年後の
1872年、廃藩置県により琉球国は琉球藩となり、
1879年、琉球処分という強制により琉球王国は消滅、沖縄県となったのです。
今帰仁監守の屋敷跡を望む。ほこらは監守の拝んだ火の神。
焼き打ち後、城下町だった今帰仁ムラと志慶真ムラは、海沿いの低地へムラ移動します。監守も今帰仁城から低地へ降りて、今帰仁ムラに移り住んでいました。
1665年。薩摩の琉球侵攻から56年後に、今帰仁監守の7世向従憲(しょうじゅうけん)は首里に引きあげます。首里は尚一族の故郷ですから、焼き討ち後、住みにくくなった今帰仁を離れ、故郷へ帰ったわけです。
今帰仁城を復興することはできなかったので、廃城となり、現在まで今帰仁城に建物は建っていません。
今帰仁監守とは : 1416年(1422年説もある)今帰仁城は中山の尚巴志(しょうはし)に滅ぼされた。今帰仁城を治めるために、尚巴志は次男の尚忠(しょうちゅう)を管理人として派遣した。
今帰仁城の管理人(Administrator)を今帰仁監守という。
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